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義足を美しいと感じた ―初めて見た、夫の義足―

義肢

義足を美しいと感じた ―初めて見た、夫の義足―

英語教師から義肢装具士へ、そして再び教育現場へ ー前編

狩野綾子

2026-06-01

キャリアの継続、ライフステージとの向き合い方、そして専門職としての本質とは何か―。

 

教師としての歩みと、義肢装具士としての歩み。

一見すると異なる道を歩んできたようでいて、その根底には一貫した想いがあります。

今号から2号に渡りご紹介する狩野綾子さんは、大手製作所に所属する義肢装具士として、そして管理職として、24年間第一線で活躍しながら「義足ユーザーの家族」というもう一つの視点を持ち続けていらっしゃいました。


作り手であり、同時に当事者家族として見つめてきたものは、私たちの日々のあり方に、新たな問いを投げかけます。
一人の歩みを通して、義肢装具士という仕事の価値をあらためて見つめ直す機会となれば幸いです。

 
 
プロフィール

狩野 綾子さま
1970年生まれ。福岡県宮若市(当時の
鞍手郡若宮町|てらてぐんわかみやまち)の農家に生まれ、山と田んぼの中で育つ。
25歳で幼馴染みと結婚。同市内のさらに山奥のお寺で家族と猫二匹、たくさんの鹿たちと暮らしている。

【ご略歴】
1993年3月|西南学院大学文学部英文学科 卒業

1994年4月-1998年3月|直方市立直方第三中学校(教育現場での第一歩)
1999年4月-2002年3月|神戸医療福祉専門学校三田校(義肢装具士資格取得)
2002年4月-2026年3月|株式会社有薗製作所(24年間にわたる義肢装具士としてのキャリア)
2026年4月~ | 宮若市立宮若西中学校(培った経験を教育現場へ還元)

英語の先生だった頃

 
大学では英文学を専攻し、卒業後は福岡県直方市の中学校に赴任して英語を教えました。生徒たちと向き合う毎日は大変ながらも充実していて、この仕事をずっと続けていくのだろうと、漠然と思っていました。

教師になってから地元の幼馴染みと結婚しましたが、結婚してまもなく、夫がバイク事故に遭いました。命が助かっただけでも奇跡という大事故でした。
 
膝の前の骨が失われていたものの、血管と神経はつながっていたため、医師からは「人工関節と骨延長を組み合わせれば足を残せる」と言われ、家族もその方向で考えていました。ところが夫本人が「足を切断してほしい」と言ったのです。
 
インターネットのない時代でしたが、読書家の夫はコンピューターが搭載された義足でスポーツができる時代が来つつあること、走るために義足を選ぶという道があることを、すでに知っていました。自分の足がうまく動かなくなるかもしれないのなら義足にする。スポーツが好きだった夫らしい決断でしたが、家族はみんなびっくりしていました。本人の意思を優先して、切断手術を行うことになりました。
 
私が「義足」という言葉を、自分のこととして強く意識したのは、その時が初めてでした。

義足との出会い〜美しい、と思った

切断手術は無事に終わりました。しかし断端の状態がよくなく、夫は半年ほど痛みで義足をうまく履くことができませんでした。今では考えられませんが、20代の若さで車椅子と義足を併用し、スポーツをしたくて足を切ったはずなのに、歩くことさえままならない日々が続きました。夫の気持ちはだんだんと沈んでいきました。
 
しかし、私は最初に作ってもらった夫の義足を初めて間近で見た時、美しいと思いました。機能のために生まれた道具が、こんなにも美しくあれるのか。精巧で、静かで、どこか凛としていました。義肢装具士という仕事を意識したのは、その瞬間でした。でも、義足が美しかったからといって、すぐに「私も作ろう」と動けるほど単純ではありません。教師として教壇に立ち続けながら、ただその美しさが心の片隅に残っていました。
 
夫も、義足でうまく歩けない悩みや焦りを抱えながら、どうにかならないかと情報を集めていました。インターネットのない時代でしたから、福岡市内の障がい者スポーツセンターのスポーツ指導員の方に相談したり、口コミや噂をたどったりしながら「神戸に義足で走っている人がいるらしい」という話を聞きつけてきました。今となればわかりますが、義足で走れるかどうかは義足自体の性能ではなく自分の体を鍛えることが大切です。でも当時はそこまで知識がありません。関西なら、もっと進んだ義足が作れるかもしれない。歩いたり、もう一度走ったりできるようになるかもしれない。夫の中でそういう気持ちが膨らんでいきました。
そうやって情報を集めているうちに、義肢装具士の仕事や義肢装具士になるための養成校があることを知ります。夫が「自分で義足を作る」と言ったこともありましたが、お寺の跡継ぎである夫には現実的ではありませんでした。もし私が義足を作れるようになれば、夫の義足をいちばん近くで理解できる人間になれるのではと思いましたが、 学校で教師をしていたし、どうしたものかなと考えていました。

アイルランド旅行での転機・教職を辞める決断

それでも夫がうじうじとしながら家にいる日々は続きました。私はなんとか外に連れ出して目先を変えようと思い、中学校で一緒に働いていたアイルランド人の先生と友達になっていたご縁もあって、アイルランドへ旅に出ようと決めました。私が先に飛行機や宿の予約を入れ終えて、夫には後から「アイルランドに行くよ」と告げました。


レンタカーを借りて、B&B(ベッド&ブレックファースト)に泊まりながらアイルランドを一周する旅でした。行きは私が夫の乗る車椅子を押して歩きました。アイルランドの風景は福岡とはまるで違って、時間がゆっくり流れていました。日本にいると、夫の心身の状態のことや、将来のこと、仕事のことが頭から離れませんでしたが、見知らぬ土地にいると、そういう不安が自然と遠くなっていきました。

旅のなかで、ふっと思ったのです。バイク事故で死にかけたけど命があった。やりたいようにやればいい。人生、なんでもありじゃないか、そんなに悩む必要もないなと。そこで義肢装具士を目指そうと、気持ちが固まっていくのが、自分でわかりました。

気持ちの変化が起きたのは、夫も同じだったのだと思います。帰りの空港では、夫は自分で車椅子を押しながら歩いていました。行きとは別人のようでした。たった一週間のことでしたが、何かが確かに変わっていました。

とはいえ、教職は責任の重い仕事でしたし、生徒たちへの思いもありました。何より、教師という仕事は自分に向いていると思っていましたから、辞めるということの意味は軽くはありませんでした。

でも、考え続けているうちに、こんな気持ちになっていきました。義肢装具士もきっと、教師に負けず劣らず責任の重い仕事のはず。どうせ大変で責任のある仕事をするなら、家族と大変さを共有しながら生きていける仕事がしたい。そう思えたとき、腹が決まりました。

前しか見えなくなると、人は動けるものです。私はそういう性格でもありましたし、もともと物を作ることが好きだったということも、背中を押してくれていたかもしれません。

浪人、そして関西の養成校へ

まず、国リハ(国立障害者リハビリテーションセンター学院)を受験しました。受かるつもりでいたんです。義足ユーザーの家族であること、英語ができること。そんな根拠のない自信がありました。

英語の試験には「とんかつの作り方」が出題され、正しい調理順に並べ替えよという問題がありました。変わった問題だと思いながらも、こういうことが求められる仕事なのかもしれないと感じたのが記憶に残っています。英語の試験は手ごたえがありましたが、数学の試験は、ほぼ0(零)点だったためあっさり落ちてしまいました。考えなしで動く性格が、ここでも出ました。

教師は退職していたので、一年間の浪人生活に入りました。その間に夫が単身で関西へ向かいました。当時の関西には、スポーツ義足やリハビリ、トレーニングの分野で名の知れた澤村誠志先生、陳隆明先生、長倉裕二先生といった方々がいらっしゃいました。義足で走る大腿切断者の小谷さんという方もいて、走るトレーニングをしてくれるという話がありました。夫は兵庫県立総合リハビリテーションセンターに入所し、新しい義足を作り直してもらいながら、長倉先生のもとで走るトレーニングを受け始めました。兵庫県の「福祉のまちづくり研究所」の中川昭夫先生の研究にも協力しました。

最初の診察で陳先生にお会いしたとき、夫に付き添っていた私が「実は義肢装具士になろうと思っています」と話すと、先生は開口一番「やめとき」とおっしゃいました。その言葉の意味が後になってわかる部分もありますが、それでも続けてよかったと今は思っています。

夫が関西で少しずつ前に進んでいるあいだ、私は翌年の受験に向けて準備をしながら、ゆっくりと過ごしていました。翌年、神戸医療福祉専門学校三田校の義肢装具士科を受験して合格しました。夫が先に移っていた関西へ私も向かい、二人で三田にアパートを借りて新しい生活が始まりました。

もう一度学生になる。養成校の3年間

28歳から始まった養成校での3年間の学生生活は、楽しいことばかりでした。いちど社会に出て働いていましたから、また学べることのありがたみが身にしみました。新しい知識が積み重なっていく感覚が、純粋に嬉しかったのを覚えています。

クラスには社会人経験のある方が多く、私より年上の方もたくさんいました。当時はまだ高校を卒業してすぐ入学する人の方が少なく、それぞれに事情を抱えてこの道を選んできた仲間たちでした。みんな本気でしたから、授業の密度も濃かったと思います。

ただ、教師出身の習性はなかなか抜けませんでした。授業中に騒がしいと思わず「ちょっと静かにして」と言ってしまい、クラスメートに呆れられることもありました。テスト前には模擬試験を自作して全員に配り、成績が危なそうな仲間を集めて勉強会を開きました。自分でも懲りない性格だとは思いますが、誰かが困っていると放っておけない。それも、教師を経験した人間の特性のようなものでしょうか。

学校の実習では夫に来てもらい、採型の練習台になってもらうこともありました。義足ユーザーの家族がそばにいるという強みを、養成校でもずいぶん活かしました。2年生のときには、義足を専門にやりたいということで、鉄道弘済会での臨床実習に行かせていただきました。3年生では、卒業後の就職を見据えて地元の有薗製作所での実習を選びました。

夫の父である先代住職が亡くなったのは2年生の時です。夫はお寺を継ぐために、先に福岡へ戻りました。養成校を卒業するまでは別々の生活となり、さみしくないといえば嘘になりますが、やるべきことははっきりしていました。残りの学生生活をやり切って、義肢装具士試験に合格して福岡に戻る。それだけでした。2002年の春、養成校を卒業し、有薗製作所に入社しました。義肢装具士としての24年間が、そこから始まりました。

編集部 あとがき

狩野さんのお話を伺いながら、一つのことが頭を離れませんでした。義足が美しいと思った瞬間、教職を辞める決断、アイルランドへの旅。どれも、誰かのために動いた先に起きたことだということです。自分のキャリアを設計したというより、目の前の人を思って動いているうちに、道が開けていった。そのことを狩野さんは「考えなしで動く性格」と笑って話してくれましたが、その行動力の根っこには、いつも誰かへの思いがありました。


後編では、義肢装具士として現場で積み重ねた24年間、女性義肢装具士としての歩み、患者さんとの忘れられない時間、そして4月から始まる新たな章について語ってもらいます。

取材・文/パシフィックニュース編集部

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